「いじめ」を始めとする日本の諸問題−保身、失敗の存在を認めない
今週の月曜日に私が関わっていた映画「暴走」(今年春公開予定)の劇伴制作が終了した。昨年の10月から作業を開始したのだがこれほど手間暇をかけた映画音楽はあとにも先にもない。この映画は「いじめ」をめぐる日本社会の暗部を徹底的に描いた映画でありこの問題が今の日本社会にとっていかに深刻な問題であるかを描いたものである。
偶然だが昨年の10月から先日までこうした「いじめ」をテーマとした仕事にたてつづけにかかわることになった。正直いささか気が滅入るほどだった。
東映の教育映画二本の音楽も担当したのでこの時期にご紹介させていただく
「いじめと戦おう!〜私たちにできること〜」
2012年文部科学省特別選定
http://www.tes-service.co.jp/education/detail/655
「いじめと戦う!〜もしもあの日に戻れたら〜」
2012年文部科学省選定
http://www.tes-service.co.jp/education/detail/654
だからというわけではないのだが、ここでは映画音楽の話ではなくいまだに話題のたえない「いじめ」について述べたい。
なぜならこの「いじめ」の問題は今の日本が抱えている諸問題、日本社会の諸問題の縮図が見て取れるからである。
記憶に新しい大津のいじめ自殺事件を見ればわかるがこの事件など典型的だが、この「いじめ」の事件の構造を見ると次の3点がみえてくる
1.現場及び学校関係者の「ことなかれ主義」
2.問題を隠蔽もしくはきちんと向き合おうとしない「臭いものには蓋をする」という発想
3.関係者の「保身」
特に一番最後が問題だが、本来ならばこれら3つは霞が関の官僚の専売特許だったはずだが、これが官僚組織である教育委員会を通じて、学校、現場の教師。いじめた生徒の親、いじめた張本人などにあたかも伝染病のように伝染したように思う。
ここで見えてくるのは今の日本社会での深刻な問題 失敗の存在を認めない。というもはや日本社会の体質となってしまった点である
失敗の存在を認めないから問題に取り組もうとしない、問題がおきても隠蔽しようとする。
当然のことながら失敗から教訓を学ぼうなどという発想はない
だから同じ失敗を何回も繰り返す
失敗をしても隠蔽し、「臭いものには蓋をする」
そしてばれたら 自らの「保身」しか考えない
教育すべき現場の教師や学校関係者がそうなってしまったのだ
それが一般庶民に「伝染」してしまっても不思議ではない。
上記の3つの仕事をやりながらそういった部分が見えてきた
松下幸之助がいみじくも
「失敗の原因を素直に認識し、「これは非常にいい体験だった。尊い教訓になった」
というところまで心を開く人は、後日進歩し成長する人だと思います。
どうも日本人の大半はそれを忘れてしまったらしい
こういう事態を作ったのは日本の経済界にも大きな責任がある。
今のサラリーマンの大半は「失敗する→リストラの対象になる→社会的な死になる」という強迫観念で仕事をしているらしい。それが新たな発想で仕事を取り組むことを阻害し、日本社会が大きく閉塞する原因を作ったということがいえる
だとしたら日本のこの閉塞した状況を作ったのは政治、日本の官僚組織、そして経団連をはじめとする経済界である
彼らはいずれも一般庶民のことなどハナから考えていない
1つだけいえることは
失敗は恥ずかしくない。そこから教訓を学べば寧ろそれは貴重な体験となる
だが
同じ失敗を何回も繰り返すのは愚か者である。そういう人間こそ嘲笑すべき連中である
政治家、官僚、経済界のトップ いずれもこういう類の連中で締められている。そんな気がしてならない