KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

八重の桜ー「蹴散らして前へ」感想と「山本覚馬」について

八重の桜「蹴散らして前へ」 今日も面白かったですね

佐久間象山勝海舟吉田松陰、そのほか各藩の藩士との交流ですっかり刺激を受け別人になった覚馬、そして保守的な体質の会津藩、当然ながら覚馬は浮いた存在になってしまいます。今日のタイトル「蹴散らして前へ」は師である象山の

「何かをやろうと前に進もうとすると必ず何もしない奴が邪魔をする。蹴散らして前に進め」

という象山のメッセージに由来します。この言葉は現代でも通じますね。実際何にもしない奴に限って新しいことの邪魔をしようとします。そんな中で一人悪戦苦闘する覚馬、しかしご心配なく、時代は覚馬のような人間を必要としていますので、すぐに禁足も解かれますが..

さて、ここで八重の兄である山本覚馬、その実績の割にはあまりにも知名度がないように思いますので、ここでネタばれになってしまいますが八重の兄の山本覚馬について述べたいと思います。なぜならこの山本覚馬はもっと高い評価を受けて然るべき人物であり、特に現代の京都は山本覚馬のおかげで現代も大都市であり続けることができた、といっても決して過言ではありません。そして何度も書きますように八重の夫となる新島穣にとっても大恩人であり、兄の山本覚馬なくして新島八重はないといっていいほどこの大河ドラマにとっても大変重要な人物になります。

山本覚馬は文政二年(1828)一月に会津若松城下の米代四ノ丁に藩士山本権八の嫡男として生まれました。鶴ヶ城の西出丸の近く、現在はかつての屋敷のあたったところに〈生誕の地碑〉が、たてられていることから会津では著名人になっているようです。砲術師範をつとめた山本家は、一五〇石という禄高からみて中級藩士で、藩校の日新館で学んでおりますが、最初は学問より武道に興味をよせていたようです。しかし次第に「武術をきわめるには兵法書をよまなければならない」と考えるようになり、学問にもとりくむようになりのちに蘭学を学ぶようになっていきます。そして25歳の時に「江戸遊学」という大きな転機がやってきます、

この「江戸遊学」は覚馬の人生を決定的に変えたといっていいでしょう、佐久間象山勝海舟吉田松陰という幕末の精鋭との交流、各藩の優秀な人材にも接触したことで世の中が全く違って見えたはずです。江戸遊学によって「国家」という意識、〈世界のなかの日本〉という意識にめざめた、といっていいでしょう。会津にかえるころには全く別人になっていたと思います。

しかしこれは当然ながら保守的な会津藩ではなかなか理解されるはずもなく、今日のドラマのような展開になり禁足を命じられてしまいます。しかし幕府が「西洋式の兵制改革」という方針を打ち出すと保守的な会津藩もそれを認めざるを得なくなり軍事取調役兼大砲頭取に任ぜられ、日新館に射撃場をつくって、指導者となっていきます。

山本覚馬は当時の人間としては驚くほど合理的な考え方の持ち主であり「壌夷論者のように西洋諸国をあなどってはならない。だからといって一部の洋学者のように攘夷論者を愚弄してもいけない。まず〈海のむこうからやってくる諸外国の驚異)から国をまもるための具体策を考えなければならない」という観点から具体的な防衛策や費用の分担まで詳細な計画案を作ったようです。覚馬は佐久間象山勝海舟横井小楠の影響を強く受けていたようで、その合理精神はその影響から来たものかもしれません。

そんな覚馬は藩主の松平容保京都守護職に就任するに伴い、京都に行きみずから師範となって兵たちを調練して御所の守衛体制を整え、池田屋の変や蛤御門の変で長州勢を撃破します。この時の働きで藩主の重臣である公用人に出世しますが、同時にこの戦いをきっかけに失明してしまい、目の治療で長崎に行きます。ここで覚馬は外国人と親交を深め人脈を作り、ヨーロッパの政情・産業や貿易に関する情報を積極的に収集します。この時の経験が後になって大きくモノをいいます。

慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いに際しては京に残り、薩摩藩に捕われてしまいますがすでに覚馬の評判はすでに長州、薩摩にもとどろいており丁重な扱いを受け実質「客人」同様の扱いだったようです。この時に来たるべき新政府にあてた建白書管見は将来の日本のビジョンを明確に描き上げたもので西郷隆盛小松帯刀も深い感銘を受けた、といわれています。この管見は政治、経済、教育等22項目にわたり将来の日本のあるべき姿を論じた建白書で、坂本龍馬の「船中八策」より遙かにに詳細で具体的な方策を示したものといっていいと思います。管見の内容としてたとえ三権分立の「政体」に始まり、大院・小院の二院制の「議事院」、「学校」、「変制」、封建制から郡県制への移行や世襲制の廃止、税制改革まで唱えた「国体」、「建国術」、「製鉄法」、「貨幣」、「衣食」、女子教育を勧めた「女学」、遺産の平均分与の「平均法」、「醸造法」、「条約」、「軍艦国体」、「港制」、「救民」、「髪制」、寺の学校への開放を唱えた「変仏法」、「商律」、「時法」太陽暦の採用を勧めた暦法、西洋医の登用を訴えた「官医」と内容は多岐にわたり、将来を見据えた当時としては驚くほど先進性に富んだ内容で、ここまで多項目を具体的に書き上げたものは他に例を見ないといっていいでしょう。そしてこれが明治政府の基本方針へと連なっていきます。これだけでも山本覚馬という人物は歴史上の人物としてもっと評価を受けて然るべきです。

これだけでもいかに山本覚馬が時代の先を見つめ、合理的な精神と経済感覚を持ち合わせた人物かがわかります。そしてこの能力が明治時代にいかんなく発揮されます。1869年に許されて釈放されて京都府大参事・河田佐久馬の推挽により京都府に出仕。槇村正直(のち京都府令・知事)の顧問として府治を指導し、当時没落の一途をたどった京都にさまざまな方策を施します。この時の山本覚馬の方策は現代の政治家も大いに参考になると思います。具体的には洋式工業を中心とする勧業新産業を起し洋式工業による殖産を展開、この時に長崎で作った外国人の人脈が大きくモノをいいます。そして農業も牧畜場、栽培試験場、養蚕場を開設、西洋式農業経営のモデルとしての役割をはたしています。

そして覚馬がもっとも重視していたのは教育でした、ここで妹の八重とその夫の新島穣との話がからんできます。「あたらしい産業や文化をおこす根本は、教育にある」と述べていた覚馬は手始めに京都市内を上京と下京にわけて(現在でも上京区下京区がありますが、現在はもっと細分化されています)、それぞれ三三組に区分、一組に一小学校の建設を計画して、明治三年(1870)ごろには、すべての小学校を設置しました。明治政府の学制発布は明治五年(1872)ですから、京都府ははるかに先行していたわけです。

そして今回の新島穣八重同志社、密航青年の新島襄との出会いは明治八年(1875)10年のアメリカ留学をおえて帰国しそのころキリスト教主義の学校づくりを模索していました。日本を近代化するには、欧米の文明を移入するだけでなく自由・自治・自立にめざめた青年を育てる」。それこそが先進文明にまなんだ自分が、祖国にむくいるただひとつの道だと新島は考えていました。この考えに覚馬は感銘、そうして旧薩摩藩邸あとにできたのが現在の同志社だそうです、

この同志社は新島穣だけでは到底できず、やはり山本覚馬なくしては実現できないものでした、その意味では妹の八重もその夫の穣も山本覚馬なしには成功できなかったといっても過言ではありません。当時の京都は西洋文明を積極的に導入していたとはいえ、キリスト教を前面にかかげた学校設立はむずかしい情勢にありました。同志社キリスト教をひとたび、切り離したかたちで英学校の開設に踏み切ったのは覚馬の知恵によるものが大きいといえます。

山本覚馬の生涯をながめますと、「幕末から維新」という時代の大きな変革期にあって先進的な識見をもって生きた先覚者ということができます。ある意味では明治政府のどの人物よりも進んだ考え方を持っていたといっていいと思います。この人物について知れば知るほど、もっと歴史上の人物として高い評価を受けて然るべき人物だという思いを強くします。またこの人の方策やビジョンは現代の日本でも大いに参考になるように思います。こんな人が今いれば今の日本ももっと別の展開になったのではないか、そういう思いを強くします。

今回の「八重の桜」をきっかけに山本覚馬が再評価されることを期待したいです。