建国記念日にあえて天皇にこだわる その2
昨年の建国記念日にも書きましたが、なぜ2月11日が建国記念日なのかというといわゆる「紀元節」から神武天皇が即位した日が西暦紀元前660年2月11日と「比定される」というのが理由ですが、今年は「平清盛」で天皇が登場人物にも出てくるように、より天皇の今までの歴史について考えたいと思います。
まず昨年の記事で「しかし天皇が実際に自ら執政したのは飛鳥、奈良時代のみでそれ以外の時代は藤原時代の摂関政治、鎌倉時代以降の武家政権も天皇が最高実力者に「お墨付き」を与えることで権力者たちが権力を正当化していった」というふうに書きましたが、これは厳密にいうと正しくありませんでした。それは今回の「平清盛」の院政を見て気がついたのですが、実際には平安時代はいろいろ形が変わったにせよ、天皇が最高権力者であり続けていました。ただ摂関政治も清盛の平氏政権も実際は天皇を傀儡化したわけであり、院政も元天皇が「上皇」となることによって最高権力者になっているわけで,平安時代においては天皇ー帝の実権が弱まり始めた時代といういいかたの方が正しいかもしれません。
元々天皇は(「すめらみこと」(統命)といわれ「統べる」(すべる)とは諸氏を統率するという意味で必然的に諸氏族の存在あっての王であったことを前提としているようです。昨年も書きましたように私は「万世一系」説を取りませんので、武烈天皇のあとの継体天皇の時に王朝交替があったのはほぼ間違いないと考えます。この他にも崇神天皇、仁徳天皇の時にも王朝交替があったという説もあります。いずれにせよ私はどう考えても「万世一系」説というのは無理があると考えています。
さて、その「ヤマト王権」の初期を見ると天皇(当時は大王(おおきみ)といいました)は必ずしも絶対的な権力を持っていたわけではないことがわかります。その1つの証左として崇峻天皇が蘇我馬子によって暗殺されるという事件が起きます。この後天皇が配流されることは何回かおきていますが天皇が暗殺されるというのは後にも先にもこの例だけです。しかもこのことによって蘇我馬子が「逆賊」という汚名を着た形跡が全くないことを考えますと、少なくともこの当時の天皇が後の世のように神格化されたものでないことは明らかだと思います。
この後、後に天智天皇となる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)の「大化の改新」は天皇の権限の強化を狙ったものとされ、それをベースにした律令国家が建設されこれは平城京の奈良時代から平安時代末期まで実質的に続きます。この時代は藤原氏を中心とした豪族が政務に参加はしますが、実質的には天皇が自ら親政をしています。
そして現在オンエアされている「平清盛」の時代の平安時代ですが、平安初期は天皇が親政したものの、平安中期は藤原摂関時代、そして平安末期は天皇の院政と平氏政権となり、政権は平安京をベースにしてはいるものの権力者が目まぐるしく変わった時代でもありました。「平清盛」の時代にようやく武士が台頭し、平氏が藤原摂関家と同様に天皇を傀儡化させようとしますが、後程ドラマでも重要な存在となる後白河法皇が武士が政権を取るための大きな障害となります。
源氏が平氏を壇ノ浦で滅亡させてもこの源頼朝は後白河法皇に振り回されることになります。例えば頼朝と義経の不和は元々後白河法皇が原因となったもので、軍略は天才的でも政治感覚が0の義経を見事に騙し、源氏の分裂を推進させ源氏の力を弱めようと謀りました。結局武士が実験を握っても、源氏が幕府を開くのは後白河法皇の死後の1192年まで待たねばなりませんでした。平氏滅亡の7年後です。
鎌倉幕府で初めて武家政権が歴史上誕生したわけですが、初期は武家の鎌倉政権と公家の平安京の実質二頭政治で運営されていました。鎌倉幕府の内部では抗争が絶えず、最後には三代将軍の実朝まで暗殺されてしまいます。この鎌倉幕府の混乱を好機とみた後鳥羽上皇は、執権の北条氏を始め鎌倉幕府に「朝敵」というレッテルを貼り鎌倉幕府倒幕を謀ります。後鳥羽上皇は諸国の武士はこぞって味方すると確信していたようですが、幕府側の北条政子が頼朝以来の恩顧を訴え上皇側を討伐するよう命じた声明を出した結果、幕府側の動揺は鎮まり、実際は後鳥羽上皇が期待したほど兵力が集まらず惨敗してしまいます。ここで情けないのは後鳥羽上皇が自ら集めた軍勢を見捨て、自らの保身のために義時追討の院宣を取り消し、藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる院宣を出すというムチャクチャなことをします。まあなんとも見苦しいですね。
結果は首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流、土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流、後鳥羽上皇の膨大な荘園は没収され幕府に支配権を握られる等、天皇の実権は大幅に制限され、鎌倉時代が終わるときまで続きます。
そして鎌倉時代末期、天皇の実権をもう一度戻そうという人物が出現します。後醍醐天皇です。後醍醐天皇は足利、新田の有力武家を使い、鎌倉幕府を滅亡させ「建武の親政」で天皇の実権を戻そうとします。ところがこの「建武の親政」というのは単に時計の針を平安時代に戻すという時代錯誤的なものに過ぎませんでした。当然これについて来る武将は少なく足利尊氏は後醍醐天皇の大覚寺統(南朝)とは別の持明院統(北朝)の光厳天皇を仰ぎ幕府を開きます。いわゆる南北朝時代ですが、最終的には南朝に見方する守護大名が減った関係で60年余りで動乱が終わり、この時の将軍足利義満は天皇の権限の殆どを奪いました。結果的には北朝の天皇がそのまま天皇になり、現在の今上天皇もその末裔です。
この時足利義満は自らを日本の王と名乗り、天皇家自体も滅ぼそうと受け取れるような発言をしているといわれていますが、結局この時天皇家が断絶することはありませんでした。これはこの時既に天皇というものが、ある種「ブランド」になりつつあったことを示しています。この後。織田信長も天皇家をつぶそうとも受け取れる発言をしたといわれますが、結局天皇家は続きました。但しその度ごとに天皇家の権限は削がれ、江戸時代に至っては「禁中並公家諸法度」において実質的に天皇は殆ど何の権限もない存在となりました。
こうして明治まで続いていくことになります。天皇親政が戻るのは明治になってからですが、天皇は最高権力者ではあっても立憲君主制を取ったために重要時のみ天皇が決断するという形だったようです。
ちなみに南北朝の話に戻りますが、南朝を正統とするのは元々は徳川光圀の「大日本史」を元にしていますが、これは主君に対する滅私奉公を美化する論調を広めたほうが当時の江戸幕府の体制維持に都合がよかったからで、実態よりも政治的意図を優先した論理です。明治時代もそれを受けついたために南朝を正統と位置づけていますが、これはよく考えますと大きな矛盾があります。というのも現在の天皇は北朝の流れなので、南朝を正統とすることは下手すると自らは正統ではない、と自分で言っているのに等しくなるからです。いつの時代でもそうですが政治的意図で決められたことは細かく突っ込むと必ず矛盾が出てきます。(南朝の末裔と称する人は今でも奈良県吉野に住んでいるそうです)
いずれにせよここで見えてくるのは「天皇」という日本人がおそらく唯一持っている「ブランド」を歴代の権力者たちが政治的に利用してきたという構図です。これは明治の体制が崩れ、戦後の民主主義の現代でもまだ私は続いていると思います。
天皇家は確かに仮に継体天皇を祖とするという説をとっても、1500年以上続いている世界でも稀有な長い王朝であることは確かです。そしてそのことを利用しようという政治勢力がまだ根強く存在していることを危惧します。
主に自民党の中にいる国家主義的勢力、宮内庁、いやそれだけではありませんが、やはり声を大にしていいたいのは現在天皇陵(といわれている、比定されている)といわれている古墳を片っ端から発掘調査し、訳のわからない神の伝説やカルト宗教じみた紀元節ではなく、きちんとした科学の目で学術調査をさせるべきでしょう。天皇をいつまでも神秘のベールの裏にとどめておくことは、こうした不埒な政治勢力に利用される可能性を残してしまいます。応神天皇陵、仁徳天皇陵は別に宮内庁の所有物ではなく国家、国民のもののはずです。それらをきちんとした学術調査をさせることこそが未来の日本にとっても財産になるはずです。
建国記念日といわれる日だからこそ、あえてこのことを主張したいと思います。