KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

「江〜姫たちの戦国〜」を見て、明智光秀と本能寺の変

さて、ここ数年日曜の夜は大河ドラマを見ていましたが江〜姫たちの戦国〜で今日たまたま本能寺の変だったので一応見てみることにしました。それを見てからの感想をいいますと結論から申しあげて今回で江〜姫たちの戦国〜はもう見ないと思います。

というのも「篤姫」の田渕久美子さんの脚本ですがやはり今回はいろんな面で違和感がぬぐえず、これ以上見るのが辛くなったというのが最大の理由です。

まず本能寺の変当時、お江はまだ九歳、数えでも十歳でうちの娘よりも年下(お江は、天正元年(1573年)生まれ)の子供であり、信長とあんなやりとりをするなんてことはまずありえないです。(長女の茶々(後の淀君)だったらわかるんですがね)

それにお江が信長の死の虫の知らせを聞いたとか信長の霊に導かれて乗馬するとかのシーンははっきりいってちょっとクサイ、と思ってしまいました。あのシーンだけでもう今回で見るのやめようと思ってしまいましたね

まあ昨年の「龍馬伝」で多くの人が云ったようにまるで重箱の隅をつつくように史実が違う云々なんて騒ぐような野暮なことをいうつもりはないですが、そもそもお江が家康と堺に本能寺の変の当時いたなどという史実はないし、来週の予告編を見たら明智光秀お江が謀反の理由を詰問するシーンがあるようで、10歳の娘にそれをやらせるのはいくらなんでも、という風に思いましたね。まあ歴史上の人物とお江を絡ませることでドラマを盛り上げようという意図はわかるんですが、ちょっとある程度歴史を知っている人間にはあまりにも違和感を感じさせる内容ですね。(あと光秀がまるでパーキンソン病であるかのように描かれていましたが、勿論そんな記録はどこにもありません)まあ歴史ドラマといっても所詮は嘘を描く、というのは事実なのでそう開き直られるとそれまでになってしまいますが..

まあそんなこんなでちょっと違和感感じまくりのお江本能寺の変ですが、この戦国の最大の謎といわれるこの大事件についてはちょっと触れておきましょう。

本能寺の変はドラマでも描かれたように明智光秀が本能寺で信長を討つ事件ですが、なぜ織田の家中で最も知将といわれた光秀があのような行動を取ったのかについては全くわかっていません。

例えばドラマで描かれていた「中国2国(出雲国石見国)は攻め取った分だけそのまま光秀の領地にしてもいいが、その時は滋賀郡(近江坂本)・丹波国は召し上げにする」というのは「明智軍記」にのみ書かれており信憑性に疑問を投げかける歴史学者も少なくないです。というのも戦国時代は江戸時代のような主君への絶対服従の風土はまだ薄く、割と欧米社会のような「ドライ」な上下関係だったといわれています。人情よりも損得勘定その他で動く可能性の方が高くその結果昨日の友は明日の敵、などということも珍しくなくなるわけです。そうしたことを考えると、みすみす自分が大損しかねない条件をいくら信長の命令とはいえ飲む家臣などこの時代にいたとは考えにくいという点があります。

あと明智光秀の行動を見ますとこの時代にしては珍しいほど合理的な考え方の持ち主だったようで、何事にも冷静な判断を下す人物だったと伝えられるため、小さな怨恨で謀反を企てるような思慮の浅い人物だったとは考えにくいといえます。

これ以外に光秀がかつて足利義昭に仕えていたことから室町幕府を再興させるように義昭から命令されていた、という説がありますが、いくら義昭との結びつきが強いとはいえ、時計の針を戻す愚挙を光秀が行なうとは考えにくいですね。

あと一時有力だった朝廷説「信長には内裏に取って代わる意思がある」と考えた朝廷から命ぜられ、光秀が謀反を考えたのではないかとする説ですがー仮にそうだとすると光秀が信長を討ち取ったあとの朝廷の態度はあまりに冷たすぎる(明らかに他の勢力との日和見を決め込んでいた)ことを考えますとこれもどうかと思います。

これ以外に諸将黒幕説、特にこの本能寺の変で一番得をした秀吉、や家康(但しこの時の有名な「伊賀超え」で家康自体かなり生命の危険に遭遇しているので家康説は違うと思います)が黒幕であるという説。あとトンデモ系では信長の自作自演説まであります。(これはいくらなんでもないでしょう)

まあ自作自演説まで出たのは信長の死体が結局発見されなかったためですが、そういうのもあって戦国最大の謎といわれていますね。何よりも戦国時代でも指折りの知将といわれた明智光秀にしてはこの本能寺の変の戦いぶりはあまりにも稚拙だというのも多くの歴史学者が指摘しています。

いずれにせよ山崎の戦いで秀吉軍に破れ、光秀は討ち取られたといわれていますが、これも実ははっきり確認されたわけではありません。というのも戦国恒例の首実験で光秀の首とされるものは腐敗して皮もはがれとても判別できるものではなかったようです。秀吉もたいした確認も取らず終わらせています。つまり光秀も本当に討ち取られたかどうかわからないんですね。

そういうこともありややトンデモ系と受け取られる可能性がありますが、後家康にとって重要なブレーンとなる天海が実は明智光秀ではないか、などという説があります。天海はある時期突然歴史の表舞台に出てきた僧で謎の部分が多い人です。

この説の根拠として
日光東照宮陽明門にある随身像の袴に光秀の家紋である桔梗紋がかたどられている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数あること。
2.日光に明智平と呼ばれる区域があること。天海が「ここを明智平と名付けよう」と言うと「どうしてですか?」と問われ、「明智の名前を残すのさ」と呟いたと日光の諸寺神社に伝承がある。
3. 徳川秀忠の秀と徳川家光の光は光秀、徳川家綱の綱は光秀の父の明智光綱、徳川家継の継は光秀の祖父の明智光継の名に由来してつけたのではないかという推測
4.光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っていること
5.学僧であるはずの天海が着たとされる鎧が残っていること。(大阪の役では軍師までしている)
6.光秀の家老斎藤利三の娘が徳川家光の乳母(春日局)になったこと
7.光秀の孫(娘の子)にあたる織田昌澄が大坂の役で豊臣方として参戦したものの、戦後助命されていること(天海が関わったかは不明)
8.テレビ東京が特別番組で行った天海と光秀の筆跡を鑑定した結果、「極めて本人か、それに近い人物」との結果が出ている。(但し別の鑑定では別人と出ています)

長くなりましたが、皆さんはどう思われますか?

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