インターネットの危機ー社会的マイノリテイが支配する異常な世界
このブログでも何回か取り上げた中川淳一郎さんのウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)の例を挙げるまでもなくインターネットの情報の質、コミュニテイやSNSでの「荒らし」やスパム等によるツールの無機能化など、昨今のインターネットに対する信頼性は著しく低下している。
これは今に始まったことではなく既にITメデイアの五年前の記事から「ネットの信頼性の低下」について述べているし、マイクロソフトなども既に二年前にこういう状況に対する危機感をあらわにし、個人情報、プライバシーの保護に対する対策を表明している。
■25%が「ネットで買い物やめた」――低下するWebへの信頼
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0510/27/news045.html
■「ネットの信頼性は世界的に低下」――MSが個人情報に関する説明会
http://pc.nikkeibp.co.jp/article/news/20081111/1009612/?f=security
こうした状況にも関わらず日本では先日の中川さんの本が出るまではこうしたネットに対する問題点を論じることすらタブーであるかのような雰囲気があった。
実際ネットのジャーナリズムにおいてはいまだにネットを礼賛や肯定する論者しか認めたがらない人たちー「ネット万能論者」−が圧倒的な発言力を今現在も持ち続けており、私などもその手の記事が出るとはっきりいって「またか、うんざりだ」と思ってしまう。しかしそういった言説を否定しようものなら、下手すりゃ「荒らし」を始めとした攻撃に遭う。(実際私も何度か受けた)
しかしよく考えると自分の周囲にそうした「ネットの可能性はばら色」といったおとぎ話を本気で信じている人間などいない。まして一部のネットユーザーのように外国人に対する差別発言をする者やいわゆるネットウヨ、なども殆どいない。しかしネットの言説を見るとそういう類のものが圧倒的に多い。
これはなぜなのだろうか?
しかももっと不思議な点がある。中川さんが『今ウェブは退化中ですが、何か?』で論じているように、ネットに関する論者“ウェブ論壇”が固定しているのだ。中川さんが揚げている“ウェブ論壇”というネットの固定論者として堀江貴文氏、勝間和代氏、山本一郎(切込隊長)氏、小飼弾氏などを揚げている。私はこれに一応池田信夫氏も加えようと思っているが、このメンツを見ると中には、係争中ながら裁判で有罪判決が出た者、経歴詐称の疑惑がある者、あと私が追加した御仁はネットの論客としばしば悶着を起こし、論点の問題点を指摘されると激昂し口汚く罵りながら、その問題点に関する論理的な回答は殆どしない等およそ大学教授とは思えない行動を取る者、等全員ではないが、一般社会では「普通は」相手にされないはずの人間がネットでは「ヒーロー扱い」である。
この状況は確かに異常である。なぜこうなってしまったのか?
ここで見えてくるのは「ネット万能論者」や中川さんのいうバカで暇人は実際にはネットユーザーのマイノリテイに過ぎない、という点である。ただ、彼らが他の多数である一般ユーザーと違うのは「四六時中ネットに貼り付いている」点であろう。
私もそうだが、普通まともな仕事をしていたら日常の業務は「会議」、または「打ち合わせ」、ありおはDTM DTP等を仕事にしているのなら「作業」をしているのが普通である。私もネットはよく使うほうだがさすがに「四六時中ネットに貼り付いている」暇はない。
しかし中川さんのいうバカで暇人は暇人だからたっぷりあるのだ。
同じように「ネットの可能性はばら色」といったおとぎ話を信じる「ネット万能論者」の多くはネット業界の関係者だったり、ITギークだったり等、仕事で「四六時中ネットに貼り付いている」連中なのだ。
当然この両者の連中の方がブログやBBSでの発言の機会は我々一般人より圧倒的にあるし、その結果「社会的に必ずしも多数派意見ではない」言説があたかも「ネットでは多数派意見」であるかのように見えてしまうのだ。それゆえ時々暴論があたかも正論であるかのように広まる、デマがあたかも真実であるかのように広まる、などということが起きてしまうのだ。
しかしこのメカニズムが正しいとすると、このネットの状況は変わりそうにない。
私は大学で通信工学における情報理論を専攻したが、よく考えるとこの状況は情報過多になることによって「情報のエントロピーが増大」している状況であるかのうように見える。そう考えると情報過多になる、ということは情報化社会にとって果たしてよいことなのか? とも思ってしまう。しかも現在のインターネットの危機的状況はこれだけではない、
長くなってしまったので続きをまた書きます。