KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

天地人ー直江兼続にからみー昔の武将はバイセクシャルだった

さて、サッカーW杯に日本が出場が決定して祝賀ムードですが(それにしてもあのレフリーはちょっとおかしい(-_-\) )私も久々に日曜の夜ものんびり大河ドラマを見ていましたが、この主人公の直江兼続ーストーリーを見ればわかりますが、単に家老という一家臣以上の権限で上杉家の方針を決めている姿が描かれています。上杉景勝は決していわゆるバカ殿ではなかったようですが、それにしても上杉家の諸方針について殆ど兼続に委ねている姿は、下克上の激しい戦国時代の末期では異例といっていいでしょう。

例えば伊達政宗の右腕で天下の名臣といわれた片倉小十郎景綱でさえ、政宗が方針を先に決め小十郎がそれに意見する、という形で少なくとも政宗主導で動いている点を見るとやはり異様です。ここには何らかの事情があるようです。

そもそも兼続は上杉家の上田衆の樋口家の出身で、本来は家老になるような家柄ではなかったのですが、少年時代から上杉謙信に見込まれ、小姓として英才教育を受けていました。実は上杉謙信は僧籍にいたため妻妾を置かなかったといわれていましたが、おそらく80%以上の確率でゲイだった可能性が高いです。同じ僧籍に入った武田信玄には少なくとも5人の側室がいたことを考えれば実に対象的です。

実は戦国時代の武将には衆道(しゅうどう)といって美少年を愛するというゲイの趣味も広く普及していました。有名なところでは織田信長森蘭丸がその衆道関係がありましたが、兼続も謙信とそして仕えていた景勝と衆道の関係にあったことはまず間違いないだろうといわれています。記録によると兼続は美少年でしかも聡明ということで、幼い頃から目を付けられていたようです。今も昔もイケ面というのは得をするということでしょうかね。(^^) 

意外に思うかもしれませんが、戦国時代の武将の殆どがこういうバイセクシャルだったようです。そもそも小姓というのはこの衆道の相手をするというのが少なくとも戦国時代までは慣わしだったようですね。ただ一般庶民にはさすがに普及していなかったようですし、今知られている限りでは秀吉にはこの趣味はなかったようです。あくまで戦国大名の「たしなみ」だったようです。

ちなみに謙信の死後、景勝と相続争い(御館の乱)をした謙信の養子の上杉景虎は大変なイケ面の男だったらしく、そのせいか景虎の正室になった景勝の実の妹は景勝の呼びかけにも関らず景虎とともに自刃してしまいました。女性もやはりイケ面の男性の方をいざとなったら選ぶということでしょうかね。

天地人では妻夫木聡が演じてますが、実際若い頃は兼続もかなりのイケ面だったようです。女性にも相当もてたようですが、兼続はあの時代の武将には珍しく側室を1人も持ちませんでした。お船さんとの関係はとてもよかったようですが、果たして天地人で演じている常盤貴子さんのような美人だったかは肖像画が残っていないので今となってはわかりません。

いずれにせよ直江兼続は上杉家を一時豊臣政権下で五大老に列するほどの地位を確立し石高も一時は百二十万石にまで増えます。しかし関が原以後はご存じの通り1/4の三十万石にまで減らされます。そのせいでしょうか、実は兼続は上杉家では江戸時代初期は「奸臣」として扱われます。これは上杉家中興の祖の上杉鷹山が兼続を手本に藩政改革を行なうまで再評価されなかったといわれます。
また兼続は嫡男が早死にしたため、兼続の死後直江家は断絶になります。しかしお船さんは景勝の嫡男定勝の母親替わりになったため藩内で重きをなしたそうです。お船さんは80歳の天寿を全うしました。

これは一説によれば禄高の高い直江家を断絶させて少しでも上杉家の負担を軽くするという点から兼続がわざとそうしたという話もあります。同様に「奸臣」説も江戸幕府の手前家康に逆らった兼続を「奸臣」にした方が都合がいいため、わざと兼続がそうさせたという説もあります。

いずれにせよ江戸時代に入りそうしたバイセクシャルの風潮-衆道は自然消滅したようです。いつ頃からかはなんともわかりませんが,,

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