KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

正月休み中に日本の古代史の謎の本を読んでました。(長文注意)

さて、仕事始めは昨日からですが今日から通常の業務モードに戻っています。とはいえ、当分新年会とかそういう類のものが続きますが...

皆さんは正月休みをどのように過ごされたでしょうか?

今日は不況のニュースとか経済環境の厳しさとかいろいろいわれていますが、まあ年末年始の休みくらいは気分転換をしたいものです。

私は休み中、日本史のーとりわけ日本の古代史の謎の部分についての本や情報を捜してみました。まあ今年は少ないですが年末年始は時代劇とか初詣に神社にでかけるということがあるものですから、何となく歴史を見てみたい気分になるんですね。

そこで日本史の古代史の謎について調べてみました。

(1) 神話の天照大神は実在した? 天照大神卑弥呼

 さて、皆さんは神社にいきますと必ず日本の『古事記』や『日本書紀』に出てくる神々を祭っていることに気づくと思いますが、この神道という日本固有の宗教は伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤とし、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立したものらしく、他の宗教と違い明確な教典等も持たないものです。しかしこのベースとなっている神話は歴史学者の間では長い間単なるフィクションで、実際の歴史とは無関係なものという風に考えられてきました。

 しかし最近は少し違ってきているようです。最近では『古事記』や『日本書紀』を勝手な想像で純然たる神話と決め付けるのは無理があり、これらの紀は国威発揚のために編集された官製の正史であるから、編集者の都合でかなり改竄されていることは確かだとしても、材料となった伝説は何らかの形で事実を反映しているはずであるという考え方の方が主流になってきています。

 そこでこの天照大神とは歴史上のどの人物に当たるのかということで歴史学者の間で論争が起きていました。その中で最近主流になりつつあるのが卑弥呼天照大神説です。卑弥呼はご存じの通り「魏志倭人伝」に出てきた日本の弥生時代後期における邪馬台国魏志倭人伝における倭国の女王(倭王)でこの卑弥呼の人生と『古事記』に出てくる天照大神には驚くほど多くの共通点があるとの話です。つまり、

天照大神素戔嗚尊スサノオノミコト)の暴虐に怒り天の岩戸に隠れた。天地は真っ暗となり、人々は畏れおののいた。八百万の神々は一計を案じ、天の安河の川原に集い岩戸の前で騒いで天照大神を岩戸から引っ張り出した。国中は明るさが戻り、素戔嗚尊は追放となって平定された

倭人伝の記述はこれと酷似します。

卑弥呼は戦中に没したが、その後国中大乱となり、暫時男の王を立てたが国中治まらず争いが続いた。そこで卑弥呼の宗女壱与を女王として立て国中の混乱は治まった。

この記事の他にも天照大神卑弥呼の類似点は多数見受けられ,また年代的にも天照大神の活躍していた神代と卑弥呼の時代とが合致します。すなわち天照大神の数世代後の子孫、神武天皇が東遷して初代の天皇となり大和朝廷を作ったとすると、その後の古事記 日本書紀の記述が矛盾無く繋がっているとのことです。「卑弥呼天照大神だとすれば全てのつじつまが合う」、と述べたのは東京大学白鳥庫吉博士でその後、和辻哲朗氏、栗山周一等氏を経て、産能大学の安本美典教授がこの説を強力に展開しているそうです。

尚、天文学者の計算では西暦237年238年に北九州地方で皆既日食が観測されたことを証明されているそうで、事実だとすればこの皆既日食卑弥呼の死と重なり、文字通り世の中が真っ暗になったといい、天の岩戸に隠れた。天地は真っ暗となり、人々は畏れおののいたという岩戸伝説とほぼ一致します。

とても面白い話ですね。確かに「古事記」は100%フィクションと見るにはあまりにもできすぎた話であるのは事実だと思いますので、かなり内容は捻じ曲げられたにせよ、ある程度ベースとなった歴史事実があると考えるのが自然だと思います。

(2) 天皇万世一系ではない? 今の天皇家の本当の祖先は継体天皇

さて、ここでwikipedeiaの天皇の一覧を見ますとあることに気づかれると思います。つまり天皇の在位期間、生没年が継体天皇の前と後で「自然さ」が全く違うという点です。この系譜だと神武天皇は二百年は生きないとつじつまが合わないことになり、それはいくらなんでもありえない話なのは明白でしょう。実はこの継体天皇、実にいわくつきの天皇です。

古事記』、『日本書紀』によると継体天皇応神天皇5世の孫であり、父は彦主人王近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で生まれ、幼い時に父を亡くし、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で成長したそうです。
日本書紀』によれば506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため、大連(おおむらじ)・大伴金村らは越前に赴いて男大迹王(おおどのおおきみー継体天皇の別名)を大王に推戴した。これを承諾した王は翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)で即位。武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后としました。526年、大倭(後の大和国)に都をおきました。その直後、継体天皇百済救援の軍を送りましたが、新羅と結んだ磐井により、九州北部で磐井の乱が勃発し、その平定に苦心しているという記録が残っています(磐井の乱については諸説ある)。

しかしこの記述では、継体が507年に即位してから大和に都をおくまで約20年もかかっており、すんなりと天皇になったわけではなさそうです。実際には天皇家(実態はヤマト王権)と周辺の部族国家間での混乱があったと思われます。これは継体天皇を時期天皇と認めない勢力がかなりあったことを物語ります。

 従来『古事記』、『日本書紀』といった記紀の記述を尊重して、継体天皇を大王家(「天皇」号成立は7世紀)の「遠い傍系に連なる有力王族」とする旧来の説がありました。しかし戦後になって天皇に関する自由な研究が認められることになったことから、継体は従来の大王家とは血縁のない「新王朝の始祖(初代大王)」とする説(水野祐「三王朝交代説」)が提唱されて、有力な説となりました。

この説によれば、いわゆる万世一系は否定され、出自不明の第26代・継体天皇から新たな大王家が始まるという説が有力になりました。現在の歴史学界では、継体が応神の5世孫かどうかは不明として、中央豪族の支持を得て即位したのは事実とする説が有力だそうです。いずれにしても継体は5代遡らなければならないほどヤマト王朝とは血縁が薄い人物であり、越前・近江の部族長であった継体が、20年かけてそれまでのヤマト王朝を統合し、新たな天皇王朝を作ったと考えるのが自然のようです。今の天皇家の本当の祖先は継体天皇の可能性が高いようです

これも面白い話です。『日本書紀』での天皇の記述も継体天皇以降はほぼ正確になっているということからして継体天皇の時代は以前と比べ「何かが」大きく変わったのは間違いないようですね。

こんな話を国家神道をいまだにカルト的に信じる右翼系の人が聞いたらまた暴走しかねないですね。彼らは万世一系を信じて疑っていない人が多いですからね。

それにしても初詣と神社にからむ話なので、ちょっと日本の古代史の謎について調べてみました。まあお正月くらいそういう遊びもいいでしょう。

さて、明日は七草七草粥でも食べてお正月気分から脱しないと駄目かもしれませんね。
明日から本格的に始動します。