KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

新しい学習指導要領を見てーやはり「ゆとり」推進者の寺脇研氏を糾弾

女房が子供の学校の保護者会に出て文部省の「新学習指導要領」なるパンフレットを持ってきた。相も変わらず抽象的な表現ばかりで、何ら中身のない、具体性のないものだ。役人はこんな言葉しか使えんのか、と思ってしまう。

新学習指導要領は以下の言葉で今までの教育政策が誤りであったことを認めている。

「ゆとり」か「詰め込み」ではなく基礎的な知識、技能の習得と
思考力・判断力・表現力の育成の両方が大切です

基礎的な知識、技能の習得が行われてなかったことを認めた表現だが、その「基礎的な知識、技能の習得」すら危ない人間に「思考力・判断力・表現力の育成」ができるのか、どうやってそれをやるのか、全く具体性もなく中身のない表現である。

それぞれの力をバランスよく伸ばしていくために教科等の授業時数を増加し、教育内容を改善します

「改善」という表現から今までが誤りであったことを珍しく文部省として認めた格好だ
だが、この教育の「失われた10年」はこれからの日本に重大な影、特に日本人の労働者の質の低下が深刻な状況になることを示している。

すでにこのブログでも書いたように「ソ連」とか「ナチス」とか社会人として当然知っていなければならない知識すら持っていない若者が増えており、映画会社が字幕に苦労する、という話がある

■『ソ連って何ですか?』、『ナチスって何ですか?』という若者増加
http://d.hatena.ne.jp/KyojiOhno/20080511/1210497534

こうした状況で腹立たしいのは日本の官僚機構は戦前の軍国主義時代から責任の所在が非常に曖昧であることだ。これは官僚たちが「自己保身」できるようにわざとそうしているのだろうと思われる。

役人とマスコミは絶対に自分のやったことに対する責任は取らない

権力を持っているからこうなるのかわからんがこういう連中が権力を持つことによって犠牲になるのはいつも庶民だ。

だが今回の「ゆとり教育」の推進者といえば「ミスター文部省」などといわれた寺脇研氏であろう。ご存じの方もいるだろうがこの人の著書「さらば ゆとり教育」を読めば「ゆとり教育」のA級戦犯がこの人物であることは明白である。

この「さらば ゆとり教育」の文章の一部を引用してこの人物の言い分をここで検証してみようと思う。

「みんな同じ」から「みんなそれぞれ」の時代へ
 日本人は明治時代から100年間、「画一平等」でいいと思ってきた。画一平等はつまらないし、苦痛だ。それでも我慢していれば、みんなと同じように洗濯機やテレビ、マイカーを持てた。
 経済成長の時代には、より金持ちになりたいという目標を共有できたが、成熟社会では、「金持ちになろう」は万人の目標となりえない。共通の目標はなくなり、個人によってさまざまな生き方が選択可能になった。東大を卒業して一流企業に勤めるのも幸せなら、フリーターとして自由気ままな生活を送るのも幸せなのである。要は「みんなそれぞれ」という考え方で成り立っていけばいい。
 そういう時代に自己実現するための教育が「ゆとり教育」なのである。共通に学ぶ知識を最低限に抑え、好きなものが見つかった時点で学ぶことを選択し、「好き」を伸ばしていくことができる。これこそまさに文化的な教育である。少なくとも、私はそう信じてきたし、今でもこの考えに誤りはなかったと思っている。

「画一平等」の点でいっていることは理解できる。だが問題は次の文章

フリーターとして自由気ままな生活を送るのも幸せなのである。要は「みんなそれぞれ」という考え方で成り立っていけばいい。

驚くことに今問題になっている「フリーター」や「ニート」を容認している。教育に携わっている人間がこれじゃあ、と思ったのは私だけではないだろう。
要は小泉や竹中が推進した「格差社会」のための教育、ということなのだろう。これは「画一平等」ではなく「教育機会の平等」自体も否定した表現である。

あと「共通に学ぶ知識を最低限に抑え、」というがこの寺脇氏のいう「最低限」とはどの程度なのか。
円周率を3.14ではなく「3」と教える、要はいわゆる先進諸国とはおよそ呼べない低レベルのものであり、先に述べた『ソ連って何ですか?』、『ナチスって何ですか?』という若者増加させる結果になった。このレベルは明らかに「最低限」必要な知識の習得どころか、社会人になるための「最低限の知識」すら持っていない内容である。この程度だけで抑えるべきだ、というのは寺脇氏が目的としているのは明らかに愚民化であり、社会人として「使い物にならない」人間を大量生産するのが目的と思われても仕方あるまい。

この社会の希望は、今や子供と若者である。これから育っていく彼らに期待するしかない。自分で考え、自分で選択し、その選択に責任を持つ。そんな人々が増えれば、今のような状況にはならない。・・・

それでは聞くがその「自分で考え」「自分で選択」する教育への啓蒙、寺脇氏自身の信念を伝えるために一体寺脇氏はどれだけの努力をしたのか? ただ文部省でふんぞり返って現場の教師を上から見下ろしていただけではないのか?現場に行って「この教育はこうやってあなたに考えさせるためのものだ」という説明、理解してもらう努力をどれだけやったのか? そうしたことをやったという話は聞いたことがない。 戦後の文部省方針を180度転換する内容であれば、そして「ゆとり」教育に対する信念がそれだけあるのなら尚更そうすべきであろう。そうした努力も充分に行わないまま、現場を批判するのは全くの筋違いである。

それなのに、世の中は、「さらばゆとり教育」とばかり、詰め込みに戻りつつある。

では聞くが「ソ連」や「ナチス」を教えるのが詰め込みなのか? 円周率が3.14と教えるのが「詰め込み」なのか? 他の先進諸国の最低限度の教育で習うことを教えることが「詰め込み」なのか? 違う!! 受験のみにしか通用しない知識、専門家しか必要ない知識を教えることを「詰め込み」というのならわかる。だがこの「ゆとり教育」でやっていることは「一人前の社会人として当然知っていなければならないことすら教えないことだ。 寺脇氏の目的は「考えることのできる人間」「選択のできる人間」の育成ではなく、愚民化して政府やお上に対して従順な人間を大量生産させることだ。そう思われても仕方あるまい そして最近の日本人をみるがいい。見事なほどに寺脇氏が目的とした人間が増えている。

政府やマスコミのいうことを何でも鵜呑み、 自分から考えることをしない、何かあったら自分から調べることをしない。そんな人間ばかりだ。 これこそ寺脇氏が目的としたことではないのか?

なぜなら寺脇氏は「考えることのできる人間」「選択のできる人間」の育成するための努力を全くやった形跡がないからである。

やはり愚民化して従順な国民にするための教育が「ゆとり」であり、そのことによって官僚や一部の財界人の「事実上の身分制度」を作り、階級を固定する、というのが「ゆとり教育」の真の目的である、と考えられても仕方あるまい。そしてこの概念は小泉や竹中が推進した新自由主義」のコンセプトと見事なほど一致する。

最後に「各学校には授業時間の追加に自由な裁量を与えている」とかいっているがこれは役人特有の「責任逃れ」の弁以外の何者でもない。もし彼らがこの政策の一旦の責任を少しでも感じているのなら(たぶん感じていないだろうが) 「ゆとり」教育世代の若者の再教育について検討すべきである。今のままでは大半の若者が一人前の社会人として使い物にならない。

寺脇研は日本の教育のレベルを著しく下げた不名誉な(文部省役人としては名誉!?)な人間として歴史に名を刻むだろう。今ある大学の教授やNPO天下りしているようだが、寺脇氏のいる京都の某大学の学生は気をつけないと愚民化の餌食となるだろう。

子供を持つ「庶民」の親としてはこの寺脇氏を糾弾せずにいられない