KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

トランプ大統領就任、TPP脱退表明でTPP瓦解、だが

今日の日はアメリカは勿論、世界にとってもある意味「悪夢」の日といえるかもしれない。後世の歴史家はおそらくそう評価する可能性が高い、

私の知る範囲ではかつて大統領が就任当時に全米でこれほど抗議活動が大規模に行われたことはなかったのではないかと思う。少なくとも私は記憶にない

トランプは貿易に対しては徹底した保護主義である。その保護主義をかかげて当選したといっても過言ではない。「米国第一主義」などという極端な一国主義が歴史上何をもたらしたか。第二次大戦前の歴史を見れば自明だ。

とはいえその極端ともいえる保護主義でTPPという自由貿易に名を借りた明らかに不平等条約(そもそもアメリカが発効しない限りTPPが発効しない、というシステムをどうして誰も「おかしい」と思わないのか。私は不思議でならない)の脱退を表明したことでTPPは事実上瓦解した。強行採決まで行ってTPPの批准を強行した安部政権は「引き続き批准を求めていく」などとアホらしいことを繰り返すのみ。「前例」をやぶってトランプとの会見を強行した安部晋三は顔をつぶされた形となり、世界中の笑いものとなった

■トランプ新大統領がTPP脱退表明、「米国第一主義」推進へ
http://jp.reuters.com/article/trump-becomes-president-idJPKBN1542GA

先日のイギリスのEU脱退表明も同じだが、EUももはや発効の見込みもなくなったTPPも「自由貿易圏」の構想だが、アジアより遙かに早くから自由貿易圏を結成していたEUが、一部の経済学者がいうように自由貿易→経済発展→国民が豊かになる」という事態になっているか、なっていればそもそもこんな動きなど起きないであろう

今世界で起きているのは、日本の経済政策にいまだ大きな発言力を持ち続けている新自由主義的な経済学者による「行き過ぎた新自由主義」に対する反発である。今全世界的に起きつつあるのは
行き過ぎた新自由主義⇒格差拡大 ⇒ ファシズム

という図式。第二次大戦のナチスファシズム軍国主義が台頭してきたあの状況に酷似しているのだ。過剰な新自由主義の反動として過剰な保護主義、一国第一主義がより戻しているのだ

このブログでは確かにTPPを批判しその危険性について述べていた。しかし過剰な保護主義、一国第一主義を支持するものではない。一国第一主義は一つ間違えれば露骨な国のエゴイズムとなり、これらは過剰な新自由主義とは別の意味で危険である。ファシズムというのは一国のエゴイズム以外の何物でもないからだ。

TPPは確かに「取りあえずは」瓦解した。ジ・エンドである。

しかしそれと同じくらい危険な状況になる可能性が高い。

ドナルド・トランプは、若い頃からいずれ自分は大統領になると語っていたという。
そう、彼の目的は大統領になることだったのだ。大統領になって何かを変える事じゃなかったのだ。そして、その目的は既に達成された訳だ。

世界でも有数の富を得た70超えた爺さんが最期の望みを叶えた訳だ。この後はもう何も失うものなど無い。世界最高の権力を持って好き放題やって過ごせる。

これは、下手すると北朝鮮金正恩よりも危険かも知れぬ。

IT起業家が口に出せない「こんなはずじゃなかった」ネットの惨状

休止前に云っておきたいこと4

インターネットが普及開始してから20年を過ぎた。インターネット黎明期にはご存じ「IT革命」とか「情報革命によって人類の未来はバラ色になる」などといった言質が飛びかった。この時期から「IT起業家」としてマスコミの寵児であるかのように扱われた起業家は口をそろえて「インターネットによって素晴らしい世の中になる」「IT革命」とか「情報革命によって人類の未来はバラ色になる」といった言質をまき散らした。今でも基本的にこういう人たちはこういった言質をことあることに主張して、「ネットによって世の中が変わる」ことを期待している「ネット住民」(中川 淳一郎さんのいう「ネット教信者」も含めて)たちの喝采を浴びているが心の底では私はこう思っていると思う。

  「こんなはずじゃなかった…」

こうしたIT起業家の言質を「藁をもつかむ」思いで「ネットのバラ色論」に固執している連中にはいい加減目を覚ませよ、といいたいのだが今のネットの目を覆わんばかりの惨状はこの通りだ

1.ますます情報の信頼性が低下するインターネット(デマ、ゴミ情報の氾濫)

今回のアメリカ大統領選で著しく問題になったFake News(嘘のニュースを誠しやかに伝えること) が問題になり、それらがFacebookを始めソーシャルネットを中心に広がった。ソーシャルネットをやっているとわかるが実はこのような嘘のニュースがまことしやかに伝わるのは今に始まったことではない。今ネットにはデマや嘘の情報、ゴミ情報が氾濫していて、その状況は年々ひどくなっている。
 元々IT関係者は「ネットの情報は自由放任であるべき」という基本姿勢を持っている。かつてmixiが毎日のように炎上を起してもmixiの管理側が「ネットは自由放任であるべき」という原則にこだわり、結果的にはmixiのソーシャルネット機能の事実上の崩壊につながった。mixiがかつてのような有益なソーシャルネットに戻ることはもはやないであろう。こういった惨状は「自由放任」といったネット黎明期の方針に多くのIT関係者がこだわった結果がこれである。IT関係者には不本意だろうが今回の「フェイクニュース騒動」に対してBBCの担当者は「私たちはインターネット上の情報を編集することはできないが、そのまま放置することもしない」と述べて、取り組みを始める意義を強調。IT関係者は認めたくないかもしれないが、もはやインターネットの情報は「自由放任」では成り立っていかないのである。

あえていわせてもらうが今のネットは 8割―9割はデマやゴミ情報 である

2.低レベル化するインターネット論壇、コンテンツ

ネトウヨを始め、短絡した見解があたかも「正論」であるかのように拡散している。元々インターネットは理屈が正しいか正しくないかに関係なく「いったもん勝ち」という傾向がある。また困ったことにネトウヨもいわゆる「ネットのヒマ人」は一般の人間より四六時中ネットにつながっているケースが多い。そのため始末が悪いことにこういったエセ正論=暴論の拡散能力だけはこの連中はある。そこでネットでは「暴論が正論」になりやすい。その「暴論」があたかも「正論」として伝わったため上映禁止になった第二次大戦をテーマとした映画が二本も出てしまった。
(1) 映画「ジョンラーベ」 詳しくは 
■映画「ジョンラーベ」上映会にて鑑賞ー史実に忠実ですが反日映画ではありません
http://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2015/12/post-242e.html
(2) 映画「アンブロークン」詳しくは 
■映画「アンブロークン」鑑賞ー不屈の精神を描いた良質の作品ー映画を見もしないで反対運動していた奴らは恥を知れ!!
http://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2016/02/post-2d22.html

後程述べるがこういう「暴論」があたかも「正論」として広まるのは主に「ネトウヨ」が「自分が気に入る情報」「自分が好きな情報」にしか耳を傾けず、ネトウヨでない人間が人間がどんなに証拠を見せようが見ようともしない傾向が強いためである。ハッキリいえばネトウヨデマサイトが「カラスの頭は白い」などといっても「そのとおりだ」などといいそうな連中だ。

3.文章読解力がネットユーザー全体が低下している

私は最近「実質文盲」という人間が増えていることを感じている。「実質文盲」とは何か?それは目の前に文章を書いてありながらそれを読まない人種である。詳しくは「実質文盲」の人たち
http://d.hatena.ne.jp/KyojiOhno/20060725  を参照されたい
それだけではなくテキストでもちょっとでも長いともう読まないのだ。下手すりゃtwitterの140文字すら満足に読まない人間が多い。だから家電の取り扱い説明書など読まずにこういうyou tubeの映像が出てくることになる

4.ネット時代に入りネットユーザーは情報に逆に鈍感になっている

 そんなバカな!と思うかもしれないが最近のネットの情報の扱い方を見ると残念ながらインターネット機器が発達してユーザーが情報に敏感になったかというと私は寧ろ逆だと思う。なぜなら最近の傾向として

 (1) 自分の好きな情報、自分が興味ある情報しか見ない。
 (2) 自分にとって例え嘘でも「都合のいい情報」「事実であってほしい情報」のみを信じる。つまり「見たくない真実」は見向きもせず「心地よい嘘」の方を信じようとする
 (3) 関心のないことは例え国や国民生活に劇的な悪影響を与えるものでも無関心であり続ける

つまり 情報の志向性が極端に偏り、志向性に無関係な情報に対しては逆に極端に鈍感になってしまうのだ

5.情報に関して「頭でっかち」の人間、わかっていないくせに分かった気になっている論調が多い

要はリアルに自分の足で情報を仕入れるのではなく、ネットにある情報、データを見てそれで「全てを分かった気になって」コラム、論文を書いている人間が多い。とりわけ経済エコノミスト系、ネットマーケテイング系、IT系の論客にこの傾向が強い。特にネットマーケテイングに至っては「自分の足で情報を仕入れる」のを「旧態依然の手法」などといってバカにする輩が少なくない。それで表面的、断片的なデータを見て「全てをわかった気になって」実にいい加減なとんちんかんな分析をしている。悲劇的なのは少し事情がわかった人間には的外れな分析だとすぐわかるのに、本人は自分がとんちんかんな分析をしている認識が全くないことだ。
 特に自称グローバリスト派などは「アメリカと同じ=グローバル」などと思い込んでいて、世界中が金太郎飴のように同質になることがグローバリズムである、などというお笑い草のようなことを本気で信じ込んでいる。ローカライズなど一切必要ない、といわんばかりだが、そもそもそんなものはマーケテイングですらない。特にMBAを取っている人間で時々そういう輩がいるがそんないい加減な考え方でよくMBAなんかとれたものだといわざるを得ない。アメリカの経済学学位はその程度のものなのか?

6.いっこうに減らないスパマー「荒らし」その他ストーカー行為に走るバカ

あえていわせてもらうが「インターネットというものはバカを大量生産している」 

インターネットは確かに便利ではあるが、その反面「情報あたまでっかち=バカ大量生産」という進歩のパラドックスが存在し、残念ながら最近はネガテイブな面ばかり目立つ。
 スパムや「荒らし」「炎上」に命をかける輩は基本的にヒマ人だ。そしてそうした「ヒマ人」が今社会に対して著しい悪影響をあたえている。この傾向は年々ひどくなっている。特に「出会い系」や「架空請求」等の犯罪を繰り返す輩はだいたい決まった人間である。IT業界が互いに協力してこういう輩をネットから追放しようと思えば不可能ではないはずだが、IT業界はこういう悪質なユーザーの締め出しには極めて消極的である、
 それはいまだにIT業界の大半が「ネットは自由放任であるべき」という原則に固執しているためだ。
だがこのままその原則にこだわればインターネットを始めとする情報化社会を崩壊させる危険性もおびている。

このままいけばせっかく夢を描いて「情報社会」を築きあげても、「インターネットは情報の量を増やしたが人類のIQを著しく下げた」
ということになりかねない。

それは「ネット住民」の教祖のようなIT起業家でも口にこそ出さないが内心そう思っているはずだ。だがそれを口にだしたら今までの自分の主張を否定することにもなる。だから彼らは内心「こんなはずじゃなかった」と思っていても口が裂けても昨今のネットの惨状について言及できないのだ。

以前約900人(正確には895人からの回答)のインターネットの「専門家」に2020年まで(あと3年だ)インターネットが人類や経済に与える影響について述べたアンケートがある
■Future of Internet IV
http://pewinternet.org/Reports/2010/Future-of-the-Internet-IV/Overview.aspx?r=1

これはインターネットの専門家のアンケートなのでどうしてもインターネットに対してポジテイブな見解でまとめやすいのだが、現状がいかに惨澹たるものかわかる
1.Googleは人を愚かにしない  
 75%がこの意見に同意  → 確かに検索のスキルは向上したが、理解が表面的断片的なのに理解した気になっている、つまり結果的に「知ったかぶり」が多くなり愚かになっている
2インターネットにより読み書き能力が改善しや知識の量も豊かになる
  「実質文盲」が増え、文章読解力が著しく低下、140文字のtwitterすら満足に読めない輩が増える。知識の量も「知ったかぶり」が多く 知識が豊かになったようで逆に無知な輩が増えている


ここで情報産業を推進している人間が聞いたら卒倒するようなことをあえていおう

そもそも情報が多い、ということは人類にとって本当にいいことなのか?

ということだ。

ネットを通じて流れている情報の大多数がデマ。フェイクニュースの類で「どれが本当に正しい情報なのかわからない」というのが現実だ。
現代のように情報があふれている社会ではそこに生きる我々は毎日が情報戦を強いられている、というのが現状だ。

問題は世の中の人の大多数が「毎日情報戦を強いられている」という認識を持っていない点だ。とりわけ日本人は他人、とくにお上、やマスコミの情報を疑うということを教えられていない。そのため今回アメリカで起きたような「フェイクニュース」のような情報操作にはいとも簡単に操られてしまうだろう、
これだけ情報が多いと個人の能力で情報を取捨選択しきれるものではない

その情報戦に対して身を護る方法として
1.他人の情報をすぐに鵜呑みにせず、真実という確信が得られるまで行動は控えること
2.「自分が同意したくなる情報」「自分にとって都合のいい情報」が来たらまず、それを疑うこと
3.できれば自分の足、リアルの部分でその情報の真偽を確かめるように心がける事
毎日の情報戦、 デマにパニくったり、慌てて行動しないようになるべく情報に対して冷静になることを心掛ける。少なくとも「デマを拡散」する一役を買わないように気を付ける事だろう

青学原監督の手法は今日本に必要とされているモデルケース

休止前に云っておきたいこと3

毎年駅伝の話をしているが今年も既に周知のとおり。青山学院大学(以下青学)が箱根駅伝3連覇、史上4校目の大学駅伝3冠という圧倒的強さを見せた。

復路は一度もトップを譲らない完全優勝。原晋監督は2003年に監督へ就任して以来これだけ強いチームを作ったわけだが、その内容をよく見ると今の日本の組織に一番欠けていることを実践していると感じた。

■青学・原監督「管理職の仕事は管理じゃない」
http://toyokeizai.net/articles/-/151440

■青学・原監督が明かす「強いチームの作り方」
http://toyokeizai.net/articles/-/151432

ポイントなる部分を引用する

監督が指示を出さなくても部員それぞれがやるべきことを考えて、実行できるチームです。つまり、指示待ち集団ではなく、考える集団。言葉にするのは簡単ですが、考える集団をつくるには、土壌づくりと同様に時間が必要です。

部員からの提案を嫌がる監督もいますが、それだと、監督の指示を仰ぐ部員やスタッフばかりになってしまいます
<中略>

初期の段階は教えることがたくさんありました。考える習慣がない部員に「さあ、考えなさい」と言っても無理。だから、監督に就任した頃は、私が話すことが多かったと思います。ただ、考えるための材料は与えても、できるだけ答えは出しませんでした。そうすると、なんとか自分で答えを導き出すしかありませんから。


このレベルに部員が育つまでには、やはり時間が必要です。

答えを出して、相談できるようになると、個々に考えるだけではなく自主的に話し合いをするようになります。青学陸上競技部でも学年を飛び越えた話し合いをよく見かけるようになりました。



考えるということは、縦のつながりも横のつながりも生み出すということです。営業職の方が宣伝部、人事部など他部署に社内ネゴシエーションするようなものです

就任した当初は怒ったこともありましたけど、今は怒るよりも諭すことが多くなりました。チーム全体を俯瞰で見ているのは監督ですから、感情的に怒るよりも言葉でじっくり諭したほうが部員の心に響くものです。

そして何よりも次の文章

チームが強くなるほど、監督の「見る」仕事は増える。それが成長したチームの理想形です。その状態を維持できるチームこそが常勝軍団だと私は考えています。

エンジン全開でこちらの部員、あちらの部員と精力的に指示を出している監督もいますが、それはチームがまだ成熟していない証拠です。あるいは、こと細かに指示を出さないと気が済まない監督だと思います。

チームが強くなるほど、監督の「見る」仕事は増える。それが成長したチームの理想形です。その状態を維持できるチームこそが常勝軍団だと私は考えています。

チームにしても会社組織にしても今まで日本で信じられてきた管理手法を根底から揺るがす手法だ。以前、アメリカの友人に「日本に欠けているのはよいマネージメントだ」といわれたことあるけど、その「マネージメント」はバリバリに管理することではなく、こういうことをすることではないか、と思う、

このケースは日本の経営マネジメント、さまざまな面でモデルケースになるかもしれない。ブラック企業なるものは社員に「思考停止」を要求し、さながらカルト集団のように作り上げるが、ブラック企業は決して今の青学のような組織には勝てないということがわかる

今の日本社会に欠けているありとあらゆることがこの青学の陸上部で実践されている。この原監督の手法はこれからのマネージメントのモデルケースになるのではないか? 今までの日本の伝統的な「体育会的手法」はもはや時代遅れということだろう

それにしてもこれは簡単なことではない

なぜなら多くの日本人は子供の頃から「考える」という習慣を育てられずに成長しているからだ。学校ではあたかも工業製品のように「統一規格」の人間しか受け付けないシステムになっている。

かくして「学校のカリキュラムで習っていない」という理由だけで本来なら正解な子供の回答に×を与えるという信じられない教育が結果として横行している。


少なくとも大学レベルでまともに数学を勉強していれば3.9+5.1=9.0 は誰がみても正解なはずである。なぜなら小数点一位の値もこの場合意味を持つので数学上9.0以外の正解などありえない、はずだが不正解になっている。理由は「まだ小数点をやっていないから」という信じられない理由からだ

もう1つ実にアホらしいのだが

今の日本の小学校は天動説を教えているらしい

これ以外にもかけ算の順序、足し算の順序、という「問題」があって、2x3=6は正解だが、3x2=6は不正解、同じように2+3=5は正解だが、3+2=5は不正解、という「世界」があるのだという。あまりにもアホらしいのだが、要は学力という「結果」よりも、教員の指示通りに解答していないという「プロセス」に重きを置いているためにこのようなアホらしいことが行われているのだという

文部科学省の指導要領には「学校のカリキュラムで教えていないことは教えてはならない」とは書いていない。しかし最近このような極めてアホらしい「プロセス」とやらに異常にこだわる教師が増えているというのははり陰に文部科学省より指導ー「学校で教える「プロセス」重視を最優先させよ」という指導があったためと考えるのが自然である。

このような指導方法は子供に「考える力」というものを萎えさせ、教師のいうことに盲目的に従う「思考停止児童」を大量に生み出すことになる

まさにこれこそが文部科学省の本当の目的であろう。「思考停止」の人間が増えることほど権力者にとって都合のいい社会はないからだ。

そして今まさに日本人はそういう「一億総思考停止」の状態になりつつある

それだけのこの青山学院大学の駅伝での成功はこうした風潮に一石を投じてくれればと思う。「考える」ことに慣れていない日本人を「考える」集団にする。

そういう集団を作るのは簡単ではない。だが企業でもチームでもそういう集団ができれば「ブラック企業」や「カルト集団」(全員が思考停止)など到底太刀打ちできないだろう。

原監督のような手法が日本社会に蔓延し、モデルケースとして広まることを願わずにはいられない

海外のいい加減な経済学者のいうことなど無視すべき

休止前に云っておきたいこと2

この時期になるといろんな団体の新年賀詞会とかあって、特に経済関係の団体になると「今年の経済界はどうなる?」といった類の話が出るわけだが

はっきりいって経済学者のいうことほどあてにならないものはない。いつもこんないい加減なコメントでよくどこどこ大学の教授などと大きな顔していられるものだ、と常々感じている。とりわけ海外ー特にアメリカのー経済関係者の日本経済に関するコメントほどいい加減なものはない。

例えば今ネットではびこっているこの記事

■「私が10歳の日本人なら、ただちにこの国を去るでしょう」ジム・ロジャーズが語る! クーリエ・ジャポン記者も直撃
http://courrier.jp/news/archives/70902/

日本の2016年の株式市場は26年前に比べると50%以上も下落しています。ほかにも同じような傾向の国はありましたが、みな回復しています。



日本は素晴らしい国ですが、国民はみんな「何かが違う」と、長いあいだ感じているはずです。



株式市場はそれを測るツールの1つにすぎません。ほかにも測る方法はたくさんありますが、日本人に聞くのが早いでしょう。おそらく多数の人が、「以前よりも状況が悪化している」と答えるはずです。

ここでよく考えればわかるが「26年前」というのは日本の「バブル時代」mの絶頂期である。
26年前(バブル絶頂期)より株価が半分だから日本は破綻しているだと? バブルの株価の方が異常なのはシロウトだってわかるだろ?

この部分だけでジョージ・ソロスとのビジネスパートナーだがなんだか知らんが、典型的な数字だけを見てそれで全てを理解した気になっている外国のいい加減な経済アナリストの言動 といわざるを得ないのだ。

日本の経済の今の状態が良くないことくらいはシロウトの私でもわかる。問題は何もかも「バブルの時代」と比べて今が悪い、などという論調が経済学者という連中から頻繁に出てくることだが、バブルの状態は過剰で異常な状態であることはあの時代に生きた人間ならわかるだろう。

問題はこういう海外のおえらい経済学者とやらのいうことを鵜呑みにしてありがたがっているマスコミや政財界ではないのか? 実際こうしたいい加減なアメリカ系経済学を継承する経済学者なる連中がこの国の経済学の政策を事実上牛耳っている。

面白い記事を紹介する。、ずいぶん前の記事だがかなり当たっていると思う

■米経済学者のアドバイスがほとんど誤っている理由
http://www.newsweekjapan.jp/obata/2016/10/post-11.php

ただし、ノーベル賞経済学者ポール・クルーグマンなどの引退した学者は言わずもがな、様々な著名実力経済学者まで、日本経済への提言、特に金融政策に関する提言は、的外れなものがほとんどだ。それはなぜなのだろうか。

第一には、まじめにやっていないからである。

 これはセミリタイアの方々に多いが、現役の方にも一部存在する。要は、他人事であり、また日本の論壇、経済学者を見下しているのである。だから、よく調べもせずに、勝手な、雑なことを言うのだ。

 例えば、ヘリコプタマネーという政策をまじめに論ずることは、まともな経済学者ではありえない。しかし、一部の米国経済学者は、他に手がないならやってみたらよい、と言う。それは無責任に適当に言っているからなのだ。彼らが、米国で、FED(米連邦準備理事会)にヘリコプターマネーでもやってみたら、とは絶対に言わない。

第二に、日本経済の現状認識が間違っているからだ。

 日本に来てみて、経済が豊かなのに驚いた、と多くの経済学者、経営者が言う。報道されている日本経済は、もはや破綻寸前、という認識が広がっているのが問題だ。1998年は、そういう面はあったと思うが、それでもそれは不動産関連の不良債権処理が問題で、バブル構造から抜け出せない構造不況業種(本当は構造の問題ではなく、バブルに乗りすぎただけなのだが)への債権が徐々に劣化していっただけのことで、銀行セクターを除けば、日本経済は破綻することはなく、根本はしっかりしており、銀行が復活すれば、復活できる力は維持していたのだ。

 現在は、それとは比べ物にならないどころか、経済は順調で、長期成長力が落ちているのは事実だが、それは世界的な現象、経済の歴史上、無限に成長を続けることはあり得ないから、受け止めるしかない。それが深刻だと捉えるとしても(いや、むしろ、そう考えるからこそ)、それを政策で対応しようなどというのは間違いで、不可能なことに全力で取り組めばコストだけが残る。ましてや、それを金融政策で何とかしようというのは、経済学の常識からも、一般的な常識からもあり得ない。

 第三に、やはり学者だからだ。

 これは悪い意味の学者、ということで、理論上の大問題、学問上は大問題であるために、熱くなりすぎて、世の中がどうなろうと、その「異常な」知的好奇心から、問題を解明するために、実験してみたくなるのだ。

だから、ベン・バーナンキFED議長でさえ(ノーベル賞経済学者のミルトン・フリードマンでさえ?)、ヘリコプターマネーなどという、奇策を議論してみているのだ。もちろん思考実験であって、実行を考えているまともな人はいないはずだが、興奮しすぎた学者は何をしでかすかわからないところもある。まあ、理解せずにやってしまう政治家よりはましだが、それをもたらすかもしれない思考実験は危険なので、個人的には控えた方がよいと思う。

 第四に、アドバイザーの誤謬だ。

 アドバイスをするからには、取り入れられるために、あるいは自分が取り立てられたいために、さらには、取り立てられなかった恨みを晴らすために、目立つ必要がある。そのとき、これで一気解決、という処方箋を提示したくなる。

 これは人情としてはわかるが最も迷惑な話だ。自己の欲望のために、日本経済を犠牲にされてはかなわない。

 第四の要素は、日本にいる経済学者の方が強いのであるが、第三と第四の要素は、自己の欲望であるために、米国のことになれば、まともな学者のピアプレッシャーもあるため、ある程度自粛される(恨みを晴らすためのクルーグマンは別だが)。日本のことならお気楽に話せるということだ。

この記事はいろんな面で納得できる。

にも関わらず日本の政財界を始めこういういい加減なアメリカの経済学者のいうことをありがたがる向きは後を絶たない。シロウトでもメチャクチャなことをいっていることがわかる

それにしてもこれらの経済学者の多くがMBAを取っていると思うのだが、こんなシロウトでもわかるようないい加減な分析をしておいてMBAを取れるのであればアメリカのMBAとは所詮その程度のレベルなのか、と思ってしまう

いい加減こういう海外の経済アナリストの言動など無視したらどうか?全部とはいわないが殆どがいい加減な言動だ

マイノリテイ―クレーマーにおびえる社会ーこのままでは日本は滅びる

休止前に書いておきたいこと1

このブログを休止する前にいくつかどうしても書いておきたいことがあった。それゆえすぐに閉鎖しなかったのだが、最近の日本の1つの傾向に関してこれだけはどうしても言っておきたかったことがある。

それは最近の日本のナンセンスクレーマーの異常な影響力についてである。

本日は大みそかだが、「除夜の鐘がうるさい」といって除夜の鐘を中止する動きが相次いているという

■除夜の鐘「うるさい」に配慮し大晦日の昼につく住職の思い
http://www.huffingtonpost.jp/2016/12/24/temple_n_13846330.html

■年末風物詩、受難の時代=除夜の鐘に苦情、餅つき中止−「共同体弱まる」懸念も
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12145-2016123000345/

こういう例は枚挙に暇がない
これ以外に公園に子供を遊ばせるのがうるさいっといってクレームする輩
■【何ならしていいの?】公園が禁止看板があふれかえる事情に疑問の声

http://togetter.com/li/818336
当ブログでも実際に引用したが愛知県東海市大田町では「盆踊りがうるさい」というクレームでイヤホン耳に無音で盆踊りするなどという信じられないことが行われたという

■攻撃の武器としての「正論」「正義」で攻撃を正当化する狂気社会
http://d.hatena.ne.jp/KyojiOhno/20150829

これらのクレームに共通するのはクレーマー「正論」「人権」「正義」なるものを武器に自らを正当化し、またクレーマーに対処する側も「事なかれ主義」でこうしたクレームを事実上容認している面がある。それが結果としてクレーマーを余計に増長させ、行動をエスカレートさせていく。

こうした後を絶たないクレームに対して元企業のクレーム対処を担当した方はクレームに対応するマニュアルをネットに公開している。
■悪質クレーム&モンスター対策
http://iec.jp/iec_hp/text_pdf/monster.pdf

かなり的確な分析をしていると思うし、クレームを対処する企業の部署に法律の専門家(民事訴訟の可能性)を常駐させ、また警察への連携体制(内容によっては威力業務妨害で逮捕可能)も提言している。
一方で確かに通常のクレームとナンセンスクレームの線引きが難しい面も指摘している(確かにグレーゾーンは存在する)ためナンセンスクレームの定義は難しいとは思う。

あくまで私見だが以下のようなものはナンセンスクレームといっていいのではないだろうか?

1 クレームの内容が社会の一般常識から乖離しているもの、ー(ex 公園に子供を遊ばせるのはおかしい、保育園の子供の声がうるさい、年末の挨拶を禁止させろ、信じられないものでは「なんでチーズバーガーにチーズ入っているんだ?」なんていうものもあったらしい等々)
2.長く続いた風物詩や慣習、コミュニテイを破壊させる恐れのあるものー(ex 上記の除夜の鐘がうるさいから中止せよ。餅つきは衛星に悪い、盆踊りの音がうるさい等)
3.製品や施設の「注意書き」「説明書」をよまずに製品やサービスにクレームする人間ー(ex 使用上の注意を読まずに薬を服用、取説を読まずに家電を使って「うまくいかない」とクレームをつける等)
4.自らの主張のみを云ってこちらの言い分を一切聞こうとしないパターン
(客「おい、お前店員か?」 ぼく「いえ、違います」 客「お前が店員かどうかはどうでもいいんだよ、いいから店長呼べ」 ぼく「ですから、店員じゃないです…」 客「そんなことは聞いてねえんだよ、店長を呼ぶのにお前が店員かどうかは関係ないだろ?」)
5.その他主張内容が支離滅裂、クレームのためのクレームだとわかるパターン

はっきりいって上記のようなクレームをいうのはおそらく周囲から普段殆ど相手にされていない、コミュニケーション能力0の人間ー普通なら誰からも相手にされないような輩であろう。
そういう普段周囲から相手にされない人間が自らのクレームで共同体や企業がクレームに「配慮」をするということで余計にこういう連中の行動がエスカレートする。その悪循環が今の日本社会ではないかと思う。

クレームされる側も「事なかれ主義」「クレームが多い=自らの査定に影響」などという官僚的サラリーマン意識がこういうノンセンスクレームにたいして過敏になり、結果マイノリテイークレーマーの天下になっている

こんなエセ正義がどんどん通る社会が健全な社会であるはずがない。ある意味中世ヨーロッパより今の日本は酷いだろう?

インターネットを中心とする社会は、一方ではこうした「頭のおかしい人間」の主張を目立たせ増幅してしまう欠点も持っている。ネトウヨやネットで「荒らし」や「炎上行為」を繰り返す人間が身分不相応な社会的影響力を手にしてしまう現状、 これが今の日本を非常におかしな方向に誘導していることは間違いない

上記のような「公園に子供を遊ばせるのはおかしい、除夜の鐘がうるさい、餅つきが不衛生だ」などといったクレームは少し前なら一笑に付されてもいいクレームだ。だがインターネット社会ではそれが異常な影響力をもたらし、こうした社会常識もコミュニケーション能力もおそらくない輩の思い通りの社会になってしまっているのだ。

上記の■悪質クレーム&モンスター対策にも書いてあるように、行政、企業、共同体等でこうしたクレーム対策とそれに対する準備体制を整えるべきだろう。
でないとこういうくだらないクレームが社会によりいっそうの悪影響をもたらし取り返しのつかない事態を誘発しかねない。

私が定義した上記の「ナンセンスクレーム、モンスター」の定義が適切かどうかはわからないが、少なくとも各クレーム対処の担当者は「ナンセンスクレーム、モンスター」の定義を使い、「ナンセンスクレーム、モンスター」に遭遇した場合は相手にせず、もしその人間がさらなる妨害活動をするのであれば法的手段、警察への通報等がいつでもできるようにすべきだろう。

マイノリテイ―クレーマーにおびえる社会が健全な社会であるはずがないし、この傾向をこのまま放置すれば最終的には国を滅ぼすくらいの事態になりかねない。マイノリテイ―クレーマー、モンスターの社会的影響力を削ぐべく社会全体が行動すべきだろう。

真田丸最終回ー史実を変えてもドラマは脚本が善し悪しを左右する

先週の日曜日、一年間楽しませてくれた真田丸が最終回を迎えました。
既に「真田ロス」という言葉があちこちから聞こえるほど、真田丸が終了して寂しいという声が強かったですね。
実際ここしばらくの大河ドラマの中でも一番面白かったといっていいでしょう。

実は真田丸はとりわけ終盤にかけてかなり史実を変えています。とりわけ「千姫」の救出できりちゃんが実質的に救出させたことになっていますが、史実では宇喜田秀家の従弟である坂崎直盛が救出ということになっています。(もっとも実際には千姫は豊臣方の武将である堀内氏久に護衛されて直盛の陣まで届けられた後、直盛が秀忠の元へ送り届けた、とする説が有力)

千姫

千姫は秀頼の正室ですが、絶世の美女だったといわれており、坂崎直盛が救出したのはその後千姫を自らの正室に迎えるという「口約束」を鵜呑みにしたといわれ、実際には千姫は突然姫路新田藩主本多忠刻との縁組が決まったため、面目を潰された直盛が千姫奪回計画を立てたという記録が残っています。(坂崎直盛は家臣に殺され、その後坂崎家は改易)

実はこの「真田丸」と同様、史上最悪といわれるできばえの「天地人」も千姫救出の場面、なんと直江兼続が救出などというありえないストーリーにしたのですが、こちらの方は非難轟轟でした。

同じ史実を変えたドラマでも三谷幸喜のドラマは「真田ロス」ということば飛び交うほどにドラマが終わったことを惜しむ声が多く、史実云々などという人は殆どいません。

この両者の違いはなんなのか。といいますといわなくてもわかると思いますが、脚本のクオリティの違い、ということになるのでしょうね、

既に数多くの実績を作り日本の脚本家の第一人者といっていい三谷幸喜とつうしょう「お粗末恵理子」などといわれる小松恵理子氏とは同じテーブルで論じること自体が(三谷氏に)失礼かもしれません。

まあ所詮歴史ドラマは実在の人物をいれているとはいえ、フィクションなわけですから史実云々について重箱の隅をつつく行為は確かに野暮です。問題はドラマとして面白いか、面白くないか、という点でその差はやはり脚本の違い、やはりいい脚本でなければいいドラマにはならない、という当たり前の結論になるわけです。

ですから信繁(幸村)の最後も実際には松平忠直の鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、「儂の首を手柄にされよ」との最後の言葉を残して討ち取られたと記録にのこされてますが。ドラマでは信繁が忠直の家臣を討ち取ってから自害することになっています。なぜならその討ち取り方が父昌幸のと同じやりかたで、三谷氏は最後にこれを見せたかったのでしょう。

三谷氏のドラマは部分、部分があとのドラマの1シーンとつながっているところがあり、それが三谷幸喜ドラマの1つの特徴でもあるのですが、最後の最後まで三谷ドラマの手法で終わらせた、ということでしょう

一年間楽しませてもらいました。関係者の皆さん お疲れ様でした
そしてありがとうございました。

久々真田丸ー豊臣秀頼下の豊臣家

久々に真田丸の話

もうTwitterを始めいろんなところで今回の真田丸について「面白い」という反応が来ているのでドラマについての評価は今更行う必要はないでしょう。

とはいえ、今回の「真田丸」ー三谷幸喜さん自身がかなり「意図的に」史実を変えている部分があるんですが、(三谷さんもかなりの歴オタですがww) 以外にそこの部分は今回誰も何もいいませんので、そこの部分だけ触れておいた方がいいかな、とも思います。「龍馬伝」の時は結構ネットでは「史実が違うのでは」とか「司馬遼太郎の「竜馬が行く」とは違う」とかかなり重箱の隅をつつくような議論がもりあがっていたのですが、今回はそこの部分は誰もあまり突っ込まないので

いくつか登場人物ーとりわけ豊臣方の登場人物に関して述べようと思います、

大蔵卿局― さてネットでは豊臣家滅亡の結果的に原因を作ったかのようなA級戦犯であるかのようにいわれていますが(笑)、いくら秀頼の乳母という立場があったにせよ、軍議に口を出したり、豊臣家の条件交渉を引き受ける、などということは現実問題としてまずありえない、といっていいです。まあ三谷さんは脚本の一環として使ったのでしょうが、そして息子の大野治長にこういわせたかったのでしょう(笑)

大蔵卿局大野定長(道犬)の妻で、淀殿豊臣秀頼の乳母を務めた点と、大阪の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件では、駿府の大御所徳川家康の元へ使者として派遣され、その後本多正純と以心崇伝を介して、両者に秀頼の徳川家に対する隔意が無いことを示すように家康(実際には本多正純)が命じたという記録がありますが、それ以上の役割を大蔵卿局が果たした、という記録は私の知る限りではありません。まして軍議で作戦に女性が口をはさむなど、当時の常識では100%ありえない、と断言していいと思います。
 そのため今回、ドラマとはいえA級戦犯とか「愚か者」という評価を大蔵卿局に対して行うのはいささか気の毒な気がします

・きり― 一応歴史の記録の上では高梨内記の娘=きり は側室ということになっています。
そして 実は「きりには信繁(幸村)の娘がいた」ようです。
それが本日伊達政宗に引き取られた娘の方で、後に片倉小十郎重長の正室になる娘です。ドラマでは正室の大谷吉継の娘・竹林院の説をとってますが、実は「きり」ちゃんの娘という説の方が有力なのです。(阿梅です)

まあ今回「きり」ちゃんを演じた長澤まさみ、がすごくよかったので、あまり細かいことは突っ込まないことにしましょう。今回長澤まさみは女優としての評価をあげたのではないでしょうか? きりちゃんのようなキャラを演じられそれがドラマの中で一服の清涼剤になった気がする。最後のラブシーンは一応「ごほうび」のつもりなんだろうけど、実に笑えるラブシーンでした。これから長澤まさみは三谷ドラマによく使われるかもしれないですね

また来週はこのきりちゃんが千姫を助ける、という展開になりそうで、おいおいそれじゃ「天地人」なみの歴史捏造じゃないか、といいたくなりますが(笑) 「天地人」の時は非難轟轟でしたが、今回はたぶん誰も何もいわないでしょうね...

大野治長― 今回の真田丸には全く触れられていないのですが、実は大野治長淀殿の間には密通の噂があり、実は秀頼は秀吉の子ではなく大野治長の子ではないか、という噂が当時からあったようです。
実はこれは1つの資料ではなく複数の文書にその部分がふれられていますが、今回の「真田丸」ではそこの部分が全くふれられていませんし、また大野治長がドラマでは今までの大野治長像と比べても「しっかりとし過ぎた」人間として描かれています。
 まあドラマの脚本の都合でそうせざるを得なかったといわれればそれまでですが、やっぱり豊臣家恩顧の大名が秀頼に殆ど加勢しなかった、という点はある程度「密通説」がまことしやかに伝わっているから、かもしれないですね。

ところで先程の「千姫救出」ですが、一般にはこの大野治長が大きく関わっているとされています。つまり大野治長の手引きで、千姫は城内から脱出する。
 大野は、千姫の脱出と引き換えに、秀頼母子の命乞いを家康に求めようとして拒絶され、秀頼とともに大坂城の山里曲輪で自害した、というのはどうやら間違いないようです。

とはいえ、大阪城落城の時に淀殿も秀頼も遺体が見つかっておらず、そのため「逃亡説」なんてものも出てくるわけですが、果たして??

ただ、歴史ドラマとはいっても所詮は「フィクション」であるわけですからあまり史実とどうだ、などと重箱の隅をつつくのはどうか、という意見には賛同します。「龍馬伝」の時は私はドラマ制作スタッフを擁護していましたからね(笑)

一年楽しませてもらった「真田丸」 いよいよ来週が最終回。
久々に面白い大河ドラマだったといっていいと思います。

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